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松平康隆と日本バレー(1)
昨年12月31日、日本バレー界の巨人、松平康隆氏が肺気腫で亡くった。本日3月9日、東京・青山葬儀所で「お別れの会」がしめやかに行なわれた。
松平康隆といえば、バレーにそれほど興味のない人でも名前だけはご存じかもしれない。しかし、「何をなした人なのか」ということになると、とたんにあやふやになってしまうのではないだろうか。彼の軌跡を、「監督として」、「メディア戦略の行使者として」「リーグプロ化の推進者として」という3つの側面から取り上げていきたい。
1962年7月、松平は9人制バレーの現役生活を終え、当時日本では未知の領域であった6人制バレーを学びに、当時最強だったソビエト連邦(ソ連)に留学した。そして全日本男子のコーチに就任。しかしこの年、全日本男子はヨーロッパへ遠征し、村の青年団選抜のようなチームも含めて、22連敗してしまう。かたや同じく帯同した全日本女子のほうは22連勝。新聞には「全日本男子チームは世界のくず」とまで書かれた。
1964年の東京五輪で、全日本男子は地の利もあり、銅メダルと健闘する。しかしこの時、女子は金メダル。「東洋の魔女」と呼ばれ、大熱狂を生み出した。ここで松平が後世、何度も語っている記録映画『東京オリンピック』事件が起こる。この作品には全日本女子がふんだんに登場するが、全日本男子はなんと一コマも登場しなかった。松平が抗議すると、市川昆監督は「クレームをつけられても、今から編集は変えられません。バレーはもともと女子しか撮影していませんから」と答えたという。
東京五輪が終わった直後の10月に全日本男子監督に就任。8カ年計画で、ミュンヘン五輪で金メダルを取るということを目標にチーム作りを始めた。そして4年後のメキシコ五輪では銀メダル、8年後のミュンヘン五輪では、とうとう金メダルを獲得したのである。男子のボールゲームで金メダルを獲ったのは、公開競技時代の野球を除けば、このミュンヘン五輪のバレーボールが唯一のものだ。
練習は厳しく、森田淳悟(ミュンヘン五輪金メダリスト。一人時間差攻撃を考案した)によると、「もう吐きそうです」と言っても、「吐いてもいいから、戻ってきてそのまま練習しろ」と言われたという。
また、トレーナーに指示し、体操を取り入れたトレーニングを行なった。これは、ボールにひもをつけて回しその上をジャンプしたり、マットの上でジャンプしたり、トランポリンの上でジャンプしながらボールを受け取って投げたり、逆立ち歩きをしたりするという独特なものだった。「松平サーカス」とも揶揄されたが、松平はこのトレーニングが基礎体力の向上とボールさばきの向上に繋がると信じてやり抜かせた。
メキシコ五輪の前に、大古誠司(ミュンヘン五輪で大砲として活躍。後に全日本男子監督としてバルセロナ五輪に出場)という選手が、川崎で草バレーをやっているチームから抜擢された。しかし大古は逆立ち歩きが苦手で、どうしてもできなかった。
あるとき松平は大古に、「あと一週間で逆立ち歩き9メートルができなければ、オリンピックへは連れて行かない」と宣言した。それから一週間、大古は逆立ち歩きを練習したが、どうしても9メートルには足りなかった。一週間後の夕食時、松平は「一週間というのは、今日の夜中までだ。さあ、やるんだ」と促した。大古は歯を食いしばって挑み、一時間半以上かかってやっと9メートルの課題をクリアした。
この時のことを大古はこう振り返る。「松平さんは、逆立ち歩きができるようになることだけじゃなく、それ以上の何かがあると見込んでいたような気がしたね。実際、私は森田、横田(忠義・ミュンヘン金メダリスト)と同期だが、このことがあるまでは、自分が後から呼ばれたという引け目があってか、どうしても『森田さん』『横田さん』とさんづけで呼んでいた。でも、この9メートル逆立ち歩きを成し遂げた後は、自然に『森田』『横田』と呼ぶことができるようになったね」
現在では世界標準となっている、Bクイック、Cクイック、時間差攻撃、ワンセッターシステム、バックアタック、一人時間差、フライングレシーブなどを選手とともに開発し、戦術に取り入れていったのも松平だった。
松平は情報戦にも熱心だった。自らはもちろん、選手たちにも相手国の歴史や政情などを学ばせ、発表会を行なった。東欧人の気質がどういうものか、ラテン気質がどういうものかというものも自然に頭の中に入ったという。「日本人はシャイだから、外国人相手にちょっと引け目を感じるところがある。でも、こういった学習で相手を知ることによって、そういう気持ちは消えて対等に戦えるようになったんだよ」(大古)
当時最高のライバルと目されていたソ連、東ドイツのうち、東ドイツとは国交がなく、招待試合を行なうことができなかった。しかし試合を行ない、データをとらなければ勝利はおぼつかない。そう考えた松平は、当時の外務大臣、愛知揆一の元へ夜討ち朝駆けではせ参じ、「国名を東ドイツではなく、DDRとするならば認めましょう」という言質を得る。
そしてその日のうちに東ドイツに飛び、東ドイツ・スポーツコミュニティの責任者と折衝をはかった。松平の熱意に動かされた両政府は、招待試合の実現に向けて動き始め、「ナショナルチームを派遣するが、東ドイツ国内ではライプツィヒ選抜軍と発表する。国旗・国歌の演奏はしない。また、DDRと表示した際に小さくてもいいからライプツィヒの名前も入れる」ということで折り合いが付き、実現することができたのだった。
東ドイツの監督を務めている人物の小学校からの成績表を取り寄せ、その性格を把握しようとしたこともあった。
そして、いよいよミュンヘン五輪が始まった。予選は順調に勝ち上がり、準決勝ではブルガリアに2セットを先取された。松平は「これから2時間やろう」と声をかけ、大逆転して決勝に進んだ。
決勝の東ドイツ戦では、松平のスタメンの予想がぴたりと当て、3-1で見事優勝をつかみ取った。
(続く)
中西美雁●文 text by Nakanishi Mikari
(この記事はスポーツ総合(webスポルティーバ)から引用させて頂きました)
au 機種変更
昨年12月31日、日本バレー界の巨人、松平康隆氏が肺気腫で亡くった。本日3月9日、東京・青山葬儀所で「お別れの会」がしめやかに行なわれた。
松平康隆といえば、バレーにそれほど興味のない人でも名前だけはご存じかもしれない。しかし、「何をなした人なのか」ということになると、とたんにあやふやになってしまうのではないだろうか。彼の軌跡を、「監督として」、「メディア戦略の行使者として」「リーグプロ化の推進者として」という3つの側面から取り上げていきたい。
1962年7月、松平は9人制バレーの現役生活を終え、当時日本では未知の領域であった6人制バレーを学びに、当時最強だったソビエト連邦(ソ連)に留学した。そして全日本男子のコーチに就任。しかしこの年、全日本男子はヨーロッパへ遠征し、村の青年団選抜のようなチームも含めて、22連敗してしまう。かたや同じく帯同した全日本女子のほうは22連勝。新聞には「全日本男子チームは世界のくず」とまで書かれた。
1964年の東京五輪で、全日本男子は地の利もあり、銅メダルと健闘する。しかしこの時、女子は金メダル。「東洋の魔女」と呼ばれ、大熱狂を生み出した。ここで松平が後世、何度も語っている記録映画『東京オリンピック』事件が起こる。この作品には全日本女子がふんだんに登場するが、全日本男子はなんと一コマも登場しなかった。松平が抗議すると、市川昆監督は「クレームをつけられても、今から編集は変えられません。バレーはもともと女子しか撮影していませんから」と答えたという。
東京五輪が終わった直後の10月に全日本男子監督に就任。8カ年計画で、ミュンヘン五輪で金メダルを取るということを目標にチーム作りを始めた。そして4年後のメキシコ五輪では銀メダル、8年後のミュンヘン五輪では、とうとう金メダルを獲得したのである。男子のボールゲームで金メダルを獲ったのは、公開競技時代の野球を除けば、このミュンヘン五輪のバレーボールが唯一のものだ。
練習は厳しく、森田淳悟(ミュンヘン五輪金メダリスト。一人時間差攻撃を考案した)によると、「もう吐きそうです」と言っても、「吐いてもいいから、戻ってきてそのまま練習しろ」と言われたという。
また、トレーナーに指示し、体操を取り入れたトレーニングを行なった。これは、ボールにひもをつけて回しその上をジャンプしたり、マットの上でジャンプしたり、トランポリンの上でジャンプしながらボールを受け取って投げたり、逆立ち歩きをしたりするという独特なものだった。「松平サーカス」とも揶揄されたが、松平はこのトレーニングが基礎体力の向上とボールさばきの向上に繋がると信じてやり抜かせた。
メキシコ五輪の前に、大古誠司(ミュンヘン五輪で大砲として活躍。後に全日本男子監督としてバルセロナ五輪に出場)という選手が、川崎で草バレーをやっているチームから抜擢された。しかし大古は逆立ち歩きが苦手で、どうしてもできなかった。
あるとき松平は大古に、「あと一週間で逆立ち歩き9メートルができなければ、オリンピックへは連れて行かない」と宣言した。それから一週間、大古は逆立ち歩きを練習したが、どうしても9メートルには足りなかった。一週間後の夕食時、松平は「一週間というのは、今日の夜中までだ。さあ、やるんだ」と促した。大古は歯を食いしばって挑み、一時間半以上かかってやっと9メートルの課題をクリアした。
この時のことを大古はこう振り返る。「松平さんは、逆立ち歩きができるようになることだけじゃなく、それ以上の何かがあると見込んでいたような気がしたね。実際、私は森田、横田(忠義・ミュンヘン金メダリスト)と同期だが、このことがあるまでは、自分が後から呼ばれたという引け目があってか、どうしても『森田さん』『横田さん』とさんづけで呼んでいた。でも、この9メートル逆立ち歩きを成し遂げた後は、自然に『森田』『横田』と呼ぶことができるようになったね」
現在では世界標準となっている、Bクイック、Cクイック、時間差攻撃、ワンセッターシステム、バックアタック、一人時間差、フライングレシーブなどを選手とともに開発し、戦術に取り入れていったのも松平だった。
松平は情報戦にも熱心だった。自らはもちろん、選手たちにも相手国の歴史や政情などを学ばせ、発表会を行なった。東欧人の気質がどういうものか、ラテン気質がどういうものかというものも自然に頭の中に入ったという。「日本人はシャイだから、外国人相手にちょっと引け目を感じるところがある。でも、こういった学習で相手を知ることによって、そういう気持ちは消えて対等に戦えるようになったんだよ」(大古)
当時最高のライバルと目されていたソ連、東ドイツのうち、東ドイツとは国交がなく、招待試合を行なうことができなかった。しかし試合を行ない、データをとらなければ勝利はおぼつかない。そう考えた松平は、当時の外務大臣、愛知揆一の元へ夜討ち朝駆けではせ参じ、「国名を東ドイツではなく、DDRとするならば認めましょう」という言質を得る。
そしてその日のうちに東ドイツに飛び、東ドイツ・スポーツコミュニティの責任者と折衝をはかった。松平の熱意に動かされた両政府は、招待試合の実現に向けて動き始め、「ナショナルチームを派遣するが、東ドイツ国内ではライプツィヒ選抜軍と発表する。国旗・国歌の演奏はしない。また、DDRと表示した際に小さくてもいいからライプツィヒの名前も入れる」ということで折り合いが付き、実現することができたのだった。
東ドイツの監督を務めている人物の小学校からの成績表を取り寄せ、その性格を把握しようとしたこともあった。
そして、いよいよミュンヘン五輪が始まった。予選は順調に勝ち上がり、準決勝ではブルガリアに2セットを先取された。松平は「これから2時間やろう」と声をかけ、大逆転して決勝に進んだ。
決勝の東ドイツ戦では、松平のスタメンの予想がぴたりと当て、3-1で見事優勝をつかみ取った。
(続く)
中西美雁●文 text by Nakanishi Mikari
(この記事はスポーツ総合(webスポルティーバ)から引用させて頂きました)
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